仕事のあれこれ、京のあれこれColumn

2022.11.04

防火意識は日本一!?
京都的 “火”との付き合い方

恩恵にあずかりながら巧妙に防火対策

路地の軒先に、あるいはお地蔵さんの祠のそばに置かれている赤いバケツを見かけたことはありませんか。荒物店などでよく見かけるブリキ製の口の広いバケツで、「火の用心」という白抜き文字が付されたものを。そう、これは街の防火のための工夫。とっさのボヤにもすぐに火消しにあたれるよう、常日頃から雨水などを絶やさずに置いてあるのです。

火の用心といえば、京都では「火迺要慎(ひのようじん)」のお札も有名ですね。
お札といえど、キョンシーのおでこに貼るような手頃なものではなく、縦39cm、幅が13cmほどの大ぶりのもの(さらに大きいサイズもあります)。中央に大きく書かれた「火迺要慎」は、「火、すなわち慎みを要する」という意味で、日頃私たちに有難い恵みを与えてくれる火ですが、一つ間違えれば全てを焼き尽くし灰にしてしまう恐ろしい存在であることを示唆しています。

このお札、文化財クラスの京町家のおくどさん(台所)だけでなく、一般家庭の台所にも結構な割合で貼られている、京都じゃ言わずと知れた有名札。しかし簡単には入手できない代物なので、個人的にお店などで見かけたときは、「おお、やるね」と思ってしまいます(気になる方は検索してみてください)。いずれにせよ、火事を未然に防ごうとする古くからの民衆の知恵であり工夫なのです。

このほかにも、火にまつわる日本の風習として“亥の日の火入れ”があります。十二支の中でも「亥」は火を沈めるとされ、古くから「亥の日」に火入れを行うと火事が起こりにくいとされてきました。スイッチ1つで暖房器具が使える便利な昨今において「火入れ」は耳慣れない言葉ですが、江戸時代の武家では10月最初の亥の日、町家では第2の亥の日に、しまってあった火鉢を出したりコタツ開きをしたと言われています。昔のコタツは囲炉裏や火鉢の上に櫓をのせ、その上に布団をかけて足を突っ込んでいましたからなかなかに火が近い。まして布団や着物なんかが触れたらたちまち火事です。ハイリスクノーリターン。だからこそ「亥の日」に火入れをして、縁起をかついでいたんですね。

茶道でも11月最初の亥の日(2022年は11月6日)に炉開き、つまり冬のしつらえにし、「亥の子餅」を食べる習わしがあります。また、炉開きとともにその年にとれた新茶をいただく「口切りの茶事」は「茶人のお正月」ともいわれ、大変晴れがましい日でもあります。とはいえ、派手な催しがあるわけでもなく、いたってシンプルに粛々と茶事を遂行するのですが、亥の日を境にきっぱりとしつらえを変え、暖かな火やお茶のエネルギーで心身を満たし、厳冬を乗り越えていこうという気概を共有し励まし合う、そんな日なのかもしれません。

近代の気候は暑さ寒さの浮き沈みが激しく、11月になっても半袖であったり、早くから暖房を用いたりと、季節感もへったくれもありませんが、11月が一つの区切り、節目であることを覚えておくと、京都での季節感がよりわかりやすく、また趣深いものになります。

何回焼けたの!? 江戸時代に京都で起こった主な大火

個人的に京都でさまざまなお店を取材する際に必ず聞くのが創業年なのですが、しばしば「資料が焼けてしまってわからない」と答えられるお店があります。長くお商売をされているお店が多い京の街にとって、先の火災は意外と身近。暮らしに防火の工夫を凝らし、五山の送り火や鞍馬の火祭などでも、火に対する畏敬の念をあらわす京都人の精神性にも少なからず影響を及ぼした京都の大火について、最後に少し触れておきたいと思います。

江戸時代、京都で広範囲に被害が出た大火災は以下のとおり。こうして見てみると初期は10年から30年のスパンで発生しています。おそろしや。
中でも江戸中期の「天明の大火」は御所、二条城、京都所司代などの要所を含む京都市街の8割以上を灰にした京都史上最悪な火災。東は大和大路、西は千本通、北は鞍馬口通、南は六条通までの範囲で3万5千以上の家屋が焼け、その被害は室町時代の応仁の乱以上と言われています。

              寛文元年(1661)
              延宝元年(1673)
              宝永5年(1708)宝永の大火
              享保15年(1730)
              天明8年(1788)天明の大火
              嘉永7年(1854)
              安政5年(1858)
              元治元年(1864)どんどん焼け

そして極め付けは幕末。元治元年(1864)7月18日(現在の8月19日)夜半に起こった池田屋騒動に端を発する「禁門の変(蛤御門の変)」に伴う大火災です。

現在のホテルオークラ(河原町御池)のあたりにあった長州藩邸にも火がかけられ、このとき多くの祇園祭山鉾が焼失しました(ちなみにこのとき焼失した大船鉾が近年、150年の時を経て復興を果たしています)。火は3日たってもおさまらず、家財道具を持って逃げ惑う町人たちは作付けした青物畑を踏み荒らし、地熱によって起こった「魔風」によって家財道具なども巻き上げられていったのだとか。手のほどこしようもなく、どんどん焼け広がったさまから“どんどん焼け”、また、市街で鉄砲の音も鳴り響いたことから“鉄砲焼け”とも言われています。この大火で特筆すべきは、同時に戦が起こっていたこと。まさに踏んだり蹴ったりの有様。京都市民にとっては苦々しい新時代の幕開けであったことでしょう。

近年、SNSを中心によく耳に目にする「炎上」という言葉。私たち現代人にとって「火」という実感は少々縁遠く、また面白おかしく軽んじてしまっているのかもしれません。江戸期に起こった宝永・天明・どんどん焼けは「京都の三大大火」とも呼ばれているようですが、第4の大火が令和でないようにしなければいけません。特に、木屋町や四条といった雑居ビルなどが密集するエリアで新しくお店を創業、オープンされる方はまずは「火迺要慎」のお札を入手することをおすすめします。そしてお札を手に入れた暁には、厨房からもお客さんからも見えやすいところに貼っておいてくださいね。きっと役立ちます。

Columnist

五島 望 Nozomi Goto / ライター・編集企画業

京都精華大学卒。東京で漫画編集者を経て京都でライター、編集企画業をしています。このたびSTART UP KYOTO運営事務局さんから「京都をテーマにコラムを書いて欲しい」とのご依頼を受け、筆を取りました。テーマがテーマですので武者震いしますが、知っていると京都の見え方、過ごし方がちょっとおもしろくなるかも、というような内容をお伝えしていけたらと思っています。お仕事の参考になれば幸いです。よろしくお願いいたします。

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五島 望 Nozomi Goto
ライター・編集企画業

京都精華大学卒。東京で漫画編集者を経て京都でライター、編集企画業をしています。このたびSTART UP KYOTO運営事務局さんから「京都をテーマにコラムを書いて欲しい」とのご依頼を受け、筆を取りました。テーマがテーマですので武者震いしますが、知っていると京都の見え方、過ごし方がちょっとおもしろくなるかも、というような内容をお伝えしていけたらと思っています。お仕事の参考になれば幸いです。よろしくお願いいたします。